ハイドンの主題による変奏曲

ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
J.Brahms / Variationen über ein Thema von Haydn  op.56a

 ブラームスがこの変奏曲を書き上げたのはちょうど40歳の時、シューマンに認められてから20年という区切りの年でもある。それまでオーケストラ単体を使って大きな曲を書いたことがなかった(コーラス付きのレクイエムや独奏者付き協奏曲ならある)ことや、この変奏曲を書き上げた経緯、曲の構成、そもそもが自作のテーマではないことなどから交響曲第一番を書くための練習台的な取り上げられ方をされやすい。しかし、ブラームス本人が意識したかどうかはわからないが、音楽史的には本格的にオーケストラ楽曲として書かれた(単独の)変奏曲の先駆者的なとらえ方もできるこの曲は、曲の変奏同様にたくさんの顔を持つ曲なのかもしれない。

 自作のテーマではなく「”ハイドンの主題による”変奏曲」、と名付けられている通り、作曲家ハイドンが遺したディヴェルティメントの中の「聖アントニウスのコラール」と題された楽章を主題として借りている。(ここ2,30年ほどの研究でどうもこの原曲を作曲したのはハイドンではないらしい、ということがわかってきたが…まあ、時代的にそんな曲はいくらでもあるので興味ある方は調べて下さい)
 この原曲を紹介したのはウィーン楽友協会に勤めていた音楽学者であり友人のカール・フェルディナント・ポールで、1870年に写譜をブラームスに見せたとされている。その曲をいたく気に入ったブラームスが着手して書き上げるまでに3年かかっているのは、いくら実直で自分の納得いかない曲を捨てることが多かったとはいえ正直ちょっとした謎でもあるが(あまり大きな曲でもないし、この曲の前後に大作があるわけでもないので)…ちょうど前年の1872年にウィーン楽友協会の音楽監督にブラームスが就任していること、同じ年に父親を亡くしていることなどが重なっているのと、変奏曲と同じ1873年に「ハンガリー舞曲集」からウィーンフィルで演奏するために数曲を編曲している、ということから推測すると、もしかしたらウィーンフィルの演奏会用に新曲を書き下ろす必要があった…のは少し穿ち過ぎだろうか。ただ、実際にこの曲が初演されたのは1873年11月2日のウィーンフィルの『第1回フィルハーモニー演奏会』だったのも事実であり、そしてこの曲の数年後から、オーケストラを使った変奏曲がたくさん発表されているというのは、どこかでつながっているような気がしてならない。それにしてもアラフォーにして楽友協会の音楽監督とは、現代から考えると相当デキる音楽家だったのかもしれない。

 この変奏曲は、1つの主題と8つの変奏+終曲で構成されているが、ざっくりと上から俯瞰した時に主題に続いて早めの速度や快活な表情を持つ第1,第2変奏、比較的緩やかで表情豊かな第3,第4変奏、キャラクターの強いスケルツォ的な第5,第6変奏、牧歌的な第7変奏に陰鬱であまり主体性のないインテルメッツォ的な第8変奏と続いて、これ自体が1つの変奏曲になる終曲…とまるで交響曲の楽章立てのようなイメージにも見えるから不思議だ。全ての変奏が同じ調性(変ロ長調)か同主短調(変ロ短調)であることと、ほぼ同じ小節数で作られていることで、とてもすっきり整った印象を抱かせる。
 主題は、原曲を尊重してか原曲と同じく木管を主体にした穏やかな響きではじまる。第1変奏は弦にバトンタッチして三連符の特徴的で優美な旋律に、第2変奏は激しさを持った短調の響きが”ブラームスらしさ”を見せる。第3変奏は同じブラームスらしさでもロマン的でのびやかに、第4変奏は前の変奏を受けて非常にオーケストラらしい複数のメロディーが弦と管で入れ替わりながら1つのクライマックスへ。うってかわって第5変奏はコロコロと軽やかな表情、第6変奏は弦のピツィカートでさらに軽やかな音色の中を木管が飄々と渡っていく。牧歌としてよく使われる6拍子のシチリアーナを模した第7変奏と陰鬱でざわざわと落ち着かない第8変奏を経て、終曲では主題から作られた低音を19回繰り返した上にさまざまなメロディーを乗せるパッサカリアという変奏曲形式の後に力強い音で主題を繰り返して締めくくられる。